大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和58年(行ウ)147号 判決

原告

甲山梅子

右訴訟代理人弁護士

角南俊輔

川上三知男

被告

国家公務員等共済組合連合会

右代表者理事長

戸塚岩夫

右指定代理人

波床昌則

中島和美

右参加人

丙島竹子

右訴訟代理人弁護士

大井勅紀

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告が昭和五八年三月一日、共済連同年第三七一号を以てした、原告の遺族共済年金の請求を却下するとの決定を取り消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  訴外乙部一郎(以下「一郎」という。)は昭和五七年五月八日死亡した。同人は右当時国家公務員等共済組合法(以下「法」という。)に基づく退職共済年金の受給権者であった。

2  原告は、同年六月一七日、一郎の遺族として遺族共済年金の給付を請求した。

被告は、昭和五八年三月一日、参加人が一郎の配偶者に該当し、原告は一郎の配偶者には該当しないとの理由により、原告の請求を却下する決定(以下「本件決定」という。)をした。

3  原告の遺族共済年金受給資格

(一) 一郎と戸籍上の妻との関係

一郎は丁川松子と婚姻関係にあったが、昭和三八年頃から別居し、右婚姻関係は、その実体を失っていた。

(二) 原告と一郎との内縁関係

(1) 原告は、昭和二五年に一郎と知り合い、結婚の申入れを受けたが、同人には妻子があったことから原告の姉等から強く反対されたためやむなく結婚を諦め、昭和三五年別の相手と結婚した。しかし、原告は一郎のことが忘れられず、夫は原告に対する優しさを欠いていたこと等から、昭和三九年一二月頃別居し、昭和四一年二月離婚した。

(2) 原告は、一郎と昭和四〇年二月頃から再び交際するようになり、昭和四一年六月明治神宮に参詣し、夫婦となる誓いを交わした。その際、一郎は、原告に右証しとして二カラットものダイヤの指輪を贈った。

二人は、同年九月東京都品川区内のマンションで同棲を開始した。その後、昭和四二年に東京都渋谷区恵比寿のマンションに転居し、昭和四五年二月に東京都品川区東五反田の三和マンション九〇八号室に、昭和四六年二月に同マンション九〇一号室にそれぞれ転居しながら、右昭和四一年九月以降一郎の死亡時まで事実上の婚姻関係を継続した。

(3) 原告と一郎とは、一郎の強い意思と希望により、住民票上も昭和四五年九月頃から同一世帯となり、原告を未届けの妻として登録した。その後、一郎に戸籍上の妻がいることが区役所に判明し、職権により原告の表示が同居人と変更されたが、これを知った一郎は区役所の担当者に抗議の電話をかけている。国民健康保険についても一郎は原告を妻として届け出ている。

一郎は三和マンションを自宅として対外的に表示しており、同人への共済組合年金振込通知書、選挙投票券等公的な書類及び年賀状等の私的な書類は、三和マンションを同人の住所地として送付され、仕事等の関係の電話も同マンションにかかってきていた。

(4) 一郎は、昭和四八年一〇月紫綬褒章を受け、その伝達式が皇居において行われた際、原告を妻として届け出、同伴して式に出席した。また、一郎は原告を国内国外の旅行に何度も同伴している。

一郎はい大学関係者、知人、三和マンションの管理人、近くの商店主等に原告を妻として紹介し、関係者は原告を一郎の妻として認めていた。原告の親戚の冠婚葬祭には原告の夫として必ず出席した。原告は乙部姓を名乗らせていた。

一郎は、同居生活に入った翌月の昭和四一年一〇月から、大学を退官するまで、俸給袋等を未開封のまま原告に手渡していた。自らの収入の使途については、原告と相談して決定し、納付申告書も原告と相談しあって作成していた。

(5) 原告は、一郎の仕事上も助手、秘書として、電話番はもとより、来信の整理、返信、各種文書の整理、発進等行い協力した。銀行等からの資金の借入れやその返済にも協力した。また、一郎が糖尿病及び慢性的湿疹の持病を有していたためその健康に気をつかい、毎日の食事療養のためのカロリー計算や食事のコントロール、病院への付添い等献身的に尽くした。

(6) 一郎は、糖尿病の悪化等により昭和五五年一〇月東邦医大病院に入院し、退院後三和マンションの自宅で療養した。昭和五七年四月北品川総合病院に入院したが、右入院の際の手続は一切原告が行った。一郎は右入院中の同月一八日自筆で全財産を原告に譲る旨の遺言書をしたためている。一郎は右病院で原告にみとられつつ死去した。一郎の葬儀、埋葬等の一切は原告が喪主としてとり行った。

(7) 以上の事実によれば、原告と一郎との関係は公的私的生活のすべての面において夫婦としての実体を備えていたものであり、主観的にも、原告、一郎共に夫婦としての共同生活をする意思を継続して有していたことは明らかである。したがって、原告は法二条一項二号イにいう「届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある者」として一郎の配偶者に該当する。

そして、原告は一郎の死亡当時主として同人の収入により生計を維持していたから、法二条一項三号により一郎の遺族に該当する。

(三) 参加人と一郎との間の内縁関係の解消

仮に参加人と一郎との間に一次的に内縁関係が存在したことがあったとしても、以下のとおり、右関係は一郎の死亡当時既に消滅していた。

(1) 一郎は、昭和四六年一月一八日東京家庭裁判所家事審判部家事相談室に参加人との内縁関係の解消の相談に赴く等、その頃参加人との内縁関係を解消する決意を固めその方策を模索していた。

(2) 同年二月二三日頃、一郎が、小切手を盗まれて参加人を疑っていたところ、被害届を提出した先の東調布警察署の警察官から換金された当該小切手のコピーを見せられ、その裏書が参加人の署名であることを知り、被害届を取り下げるという事件があった。

その結果、参加人と一郎との関係は破綻するに至り、参加人は、これに気付き、同年三月頃一郎に対し別離の意思を表明するメモ書き(甲第五三号証)を渡し訣別の宣言をした。

(3) 昭和四六年三月頃から参加人は一郎に復讐心を燃やし始め、子供の太一を連れて一郎の勤務先である東都大学に押しかけ、参加人と一郎との関係を暴き、太一の認知を要求するという行動に出た。

一郎は、大学助教授という肩書に異常な程執着し、名声、体面に病的にこだわる性格であった。そのため参加人の右行動を死ぬまで許せなかった。また、一郎が教授になれずに終わったことの責任の一部は参加人の右行動にあると信じ込み、いよいよ参加人との関係の解消に専念するという結果となった。

(4) 右のような経過によって一郎との内縁関係が切れる状況に至った参加人は、せめて太一の認知と母子の生活費を確保すべく、昭和四七年二月頃三和マンションを訪れて一郎と原告の居宅の隣室の三浦豊子宅に入り込み、大きな声で怒鳴り、暴れ、そのため同人が警察に通報し、パトカーが出動するという事件を引き起こした。

その後、大崎警察署の防犯課家事相談係の佐藤亨作、岡澤安二が参加人と一郎との間に入り、話合いの仲介をした。右話合いにおいて、参加人は太一の認知及び参加人と太一とが生活できるだけの慰謝料の支払を要求した。その結果、両者は内縁関係を解消することを前提にして、一郎が毎月割賦払いの慰謝料を支払うことで合意に達し、事件は同警察署の手から離れた。

原告は一郎の死亡するまで、原告のデザイナーとしての収入から、一郎の名前で右慰謝料の支払を続けた。

(5) 以上のとおり、参加人と一郎との内縁関係は、昭和四六年二月頃、または遅くとも慰謝料支払の契約が成立した昭和四七年二月頃には完全に解消されその実体を失った。

(四) 内縁関係重複時における配偶者の決定基準

内縁関係が重複して存在している場合に、いずれの関係にある者を遺族共済年金の受給資格者である配偶者(内縁の妻)とするかについては、内縁関係の実質を考察し、いずれがより密度の高い関係にあったかという観点から判断されるべきである。

婚姻関係と内縁関係とが重複する場合においては、民法が婚姻について届出主義を採っている以上、婚姻関係を優先して保護することには合理性がある。しかし、内縁関係が重複する場合に先行する内縁関係上の配偶者が優先的に保護される理由はない。したがって、いずれを優先すべきかは、国家公務員等及びその遺族の生活の安定と福祉の向上に寄与するという法の目的からして内縁関係の実体如何により決定すべきであり、それがまた強制的に掛け金を出損させられた当該組合員の意思にも合致する。仮に双方の内縁関係の密度が同一であるときには、法四三条、四四条の趣旨からして双方に等分して共済給付を行うべきである。

したがって、仮に一郎の死亡時まで参加人と一郎との内縁関係が継続していたとしても、その関係は原告と一郎との関係に比べ甚しく希薄なものであったから、原告の方が内縁の妻として右受給資格を有する。

4  本件決定の違法性

原告は、右のとおり、一郎の内縁の妻として法八八条一項に規定する遺族共済年金の受給資格者である遺族に該当するから、原告の遺族共済年金の請求を却下した本件決定は違法である。

5  よって、本件決定の取消しを求める。

二  請求原因に対する認否

〔被告〕

1 請求原因1、2の事実を認める。

2(一) 同3(一)の事実を認める。

(二) 同3(二)について

(1) (1)の事実は不知。

(2) (2)のうち、原告と一郎とが内縁関係にあったことを否認し、その余の事実は不知。

(3) (3)のうち、原告と一郎とが住民票上昭和四五年九月頃から同一世帯として記載されていること及び原告が一郎の未届けの妻として記載され、後に同居人と訂正されたことを認める。その余の事実は不知。

(4) (4)のうち、一郎が昭和四八年一〇月紫綬褒章を受賞したことを認めるが、その余の事実は不知。

(5) (5)の事実は不知。

(6) (6)の事実は不知。

(7) (7)前段の主張を争う。後段の事実は不知。

(三) 同3(三)のうち、一郎と参加人との内縁関係が解消したことを否認し、その余の事実は不知。

(四) (四)の主張を争う。

3 同4の主張を争う。

〔参加人〕

1 請求原因1、2の事実を認める。

2(一) 同3(一)の事実を認める。

(二) 同3(二)について

(1) (1)の事実は不知。

(2) (2)前段のうち、原告と一郎とが夫婦となる誓いを交わしたことを否認し、その余の事実は不知。同後段の事実を否認する。

一郎が昭和四六年頃から火曜日と金曜日に原告方に外泊していた事実はあるが、原告と同居していた事実はない。

(3) (3)前段のうら、原告と一郎とが昭和四五年九月頃から住民票上同一世帯員となっていること及び原告の住民票上の続柄欄の記載が一時一郎の未届けの妻として記載され、後に同居人と訂正されたことを認めるが、その余の事実を否認する。後段のうち、一郎が三和マンションを自宅として表示していたことを否認し、その余の事実は不知。

右住民票の記載は、原告が、一郎に住民登録の移動を働きかけ、事務手続にうとい同人に代わって右手続を行ったため右のようになったものである。

一郎は、昭和五一年春の定年退官後、雪谷のマンションを自宅と呼び、三和マンションを乙部研究所の事務所所在地と称していた。

(4) (4)前段のうち、一郎が昭和四八年一〇月紫綬褒章を受けたことは認め、その伝達式に一郎が原告を妻として届け出、同伴したことを否認し、その余の事実は不知。中段及び後段の事実を否認する。

一郎が原告を同伴した事実があったとすれば原告により右受賞については原告の尽力によるところが大であったものと騙され、この労にこたえるため同伴してほしいと要求され、これに応じたものである。

(5) (5)のうち、一郎が糖尿病の持病を有していたことを認め、原告が一郎の健康のため献身的に尽くしていたことを否認する。その余の事実は不知。

(6) (6)のうち、一郎が糖尿病の悪化等により昭和五五年一〇月東邦医大病院に入院したこと、昭和五七年四月北品川病院に入院したこと及び同病院で死亡したことを認める。原告が一郎の葬儀等を行ったことは不知。その余の事実を否認する。

一郎は東邦医大病院を退院後、参加人のもとで療養していた。一郎は昭和五七年四月六日、原告方で倒れ、救急車で北品川総合病院に入院したが、入院後、肝性昏睡ないし意識混濁の状態を繰り返していた。原告はこれを奇貨とし、病院に対して妻と名乗り、参加人等の関係者に右入院の事実を隠ぺいし、一郎を隔離状態にしていたものである。

原告は一郎の死亡を肉親にも知らせず、同居の親族と偽って、即日同人の死亡届けを提出し、独断で遺体を火葬に付したものであり、そのため、肉親の誰一人として一郎との最後の別れすらできなかった。仮に、原告が一郎の葬儀等を行ったとしても、遺族の知らない間に原告が勝手に行ったものにすぎない。

(7) (7)の事実を否認し、主張を争う。

(三) 同3(三)(1)ないし(5)の事実を否認する。

なお、一郎に対し別離の意思を表明するかのような参加人作成の書面が存在するが、これは、参加人が、昭和四六年二月下旬頃、原告の存在を初めて知り、衝撃のあまり手紙形式に託した書面をしたためて机の上に置いていたものを一郎に見つかり、取り上げられたものである。このとき参加人は一郎から説得され、以後も結婚生活を継続することを約束してその場は収まった。

(四) (四)の主張を争う。

3 同4の主張を争う。

三  被告及び参加人の主張

1  内縁関係重複時における配偶者の決定基準

法二条一項二号イにいう「届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある」とは、社会通念上、夫婦としての共同生活と認められる事実関係を成立させようとする合意が当事者間にあり、かつ、その事実関係が存在するいわゆる内縁関係にある場合をいうものであり、内縁関係が重複して存在している場合には、先行する内縁関係がその実体を失っていない限り先行する内縁関係にある者が、組合員の配偶者として共済給付を受けることができるものと解すべきである(昭和三八年九月二八日付け「国家公務員共済組合法にいう配偶者の意義について」と題する法制局意見。)。

2  参加人は、昭和三八年一二月東京都目黒区上目黒一丁目所在のコーポ三〇一号室において、一郎と同居生活に入り、同人との間に太一(昭和四一年三月一〇日生)をもうけ、昭和四二年八月東京都大田区東雪谷四丁目所在のハイム五一一号室に転居した後も、一郎の死亡時まで同人との共同生活を継続し、右の間内縁関係にあった。一郎は、脳軟化症に罹患していた同人の母乙部はなをコーポに住まわせ、同人が昭和三九年八月二二日に死亡するまで、その身の回りの世話を参加人にさせていた。参加人は、一郎と同居を始めた後は、職に就かず、同人の収入に依存して生計を維持していた。

3  したがって、仮に原告主張のとおり原告が昭和四一年頃から一郎と内縁関係にあったとしても、一郎について右内縁関係に先行する参加人に係る内縁関係が存在する以上、先行する内縁関係にある参加人を以て一郎の配偶者と解すべきであるから、原告を一郎の配偶者として認めることはできない。

よって、本件処分は適法である。

四  被告及び参加人の主張に対する認否

1  同1の主張は争う。

2  同2の事実のうち、太一が出生したことは不知、その余は否認する。

一郎は昭和三八年一二月頃から妻松子との関係が悪化したこともあり、時には参加人のもとを訪れていたであろうが、同居関係となったことはない。

一郎と参加人との間には婚姻意思も共同生活の実体もなく、二人の関係は単なる男女の交際関係であった。

3  同3の主張は争う。

第三  証拠〈省略〉

理由

一請求原因1、2及び3(一)の各事実は、当事者間に争いがない。

二内縁関係が重複した場合における配偶者の決定基準について

法は、届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある者も配偶者として取り扱い(法二条一項二号イ)、遺族年金の受給資格を認めているところ、右にいう事実上婚姻関係と同様の事情にある者とは、社会通念上夫婦の共同生活と認められる事実関係及びこのような関係を成立させようとする当事者間の合意が存在するいわゆる内縁関係が存在する場合の内縁関係上の当事者をいうものと解すべきである。

法が内縁関係上の当事者に対してこのような取扱いを規定しているのは、内縁関係が実質的に婚姻関係に準ずる社会的実体を有するものであるからにほかならないから、一旦内縁関係が成立した以上、これを尊重すべきことは婚姻関係の場合と同様であって、内縁関係にある被保険者が他の者と重ねて内縁関係に入った場合でも、内縁関係上の当事者について右のような取扱いを規定した法の趣旨及び社会一般の倫理感からいって、婚姻関係にある被保険者について同様の事情が生じた場合に準じ、先行する内縁関係がその実体を失っていない限り先行する内縁関係を尊重して、同関係上の当事者をもって法に規定する配偶者とみるのが相当というべきである。右解釈に反する原告の主張は、採用することができない。

三一郎と参加人との内縁関係について

1  内縁関係の成立

〈証拠〉を総合すれば、参加人と一郎とは、昭和三八年暮れに東京都目黒区上目黒一丁目所在のコーポ三〇一号室において同居を開始し、以後、昭和四二年八月には東京都大田区東雪谷四丁目所在のハイム五一一号室に転居し、右各住居において同棲関係にあったこと、二人の間に太一(昭和四一年三月一〇日生)をもうけていること、一郎は、コーポ二一一号室を購入して同所に脳軟化症に罹患していた母の乙部はなを住まわせ、同人が昭和三九年八月二二日に死亡するまでその身の回りの世話を参加人にさせていたこと、参加人と一郎は隣人や参加人の友人から夫婦とみられていたこと、一郎が名刺にハイム五一一号室を住所として表示し、参加人及び一郎の関係者がコーポ三〇一号室及びハイム五一一号室を住所として一郎宛の年賀状等の郵便物を発送していたこと、以上の事実が認められるところ、これらの事実からすれば、参加人と一郎との間には、コーポに居住を開始した時点で、内縁関係が成立していたものと認めることができる。

なお、原告は、一郎が太一を自分の子として認めていなかったと述べる(第一回原告本人尋問)が、右供述はにわかに信用することができない。また、証人柄木田寿春は、コーポの参加人方にクリーニングの用聞きに出入りしていたが、男物の衣類のクリーニングの注文を受けた事実はないと証言するが、右証言が事実であったとしても、前記認定を覆すには足りない。さらに、〈証拠〉によれば、一郎がコーポ及びハイムに住民登録を行っていないことが、成立に争いがない甲第四五号証によれば、一郎が太一を認知したのは出生後約六年を経過した昭和四七年二月三日になってからであることがそれぞれ認められるが、右各事実も前記認定を覆すには足りず、その他前記認定を覆すに足りる証拠はない。

2  内縁関係の解消の有無

(一)  請求原因3(三)の各事実について

(1) 同(1)の事実について、原告は、一郎が家庭裁判所に参加人との関係を解消するため相談に行ったことがあり、甲第三〇号証の一、二はその際の書類であって、甲第三〇号証の一の申立てのしおりの「婚姻外関係解消」という文字は家庭裁判所の係官が記入したものと一郎から聞いており、甲第三〇号証の二も係官が記入したものと思うと述べる(第一回原告本人尋問)。しかし、他方で、一郎が婚姻外関係解消ということは、戸籍上何もないからということで受け付けられないと笑われたと言って帰ってきたと述べており、(同本人尋問)、受け付けられない事件について、係官が申立てのしおりに参考事項を記入したり、甲第三〇号証の二に記載してあるような申立てに必要な書類を教示したりすることはあり得ないことであるから、右各供述は相互に矛盾する。したがって、原告の右各供述をにわかに信用することはできない。

そのほか、甲第三〇号証の一の書込み部分及び日付部分がいつ誰によって記入されたのかを認めるに足りる証拠がないから、右証拠をもって、右事実を認めるには足りず、他に右事実を認めるに足りる証拠はない。

(2) 同(2)前段の事実について、〈証拠〉からすれば、昭和四六年二月二〇日頃、一郎が小切手を紛失して一時は参加人が盗取したものと疑い、参加人の疑いが晴れると戸籍上の妻松子を疑った事実があったことがうかがわれるものの、その余の事実については、これを認めるに足りる証拠はない。

原告は、一郎が当該小切手のコピーを見せられ、被害届を黙って取り下げたこと、右小切手の裏書について参加人の字だと思うと言っていたと述べる(第二回原告本人尋問)が、右供述はにわかに信用することができない。

同後段の事実について、参加人は、前掲甲第五三号証は、右小切手に係る事件の約一年後の昭和四七年になってから作成したもので、一郎に示す目的で作成したものではない旨を述べる(第二回参加人本人尋問)が、右書面の内容からして、参加人が作成当時一郎に対し原告との関係に関して強い不満を抱いていたことが明らかであり、また、〈参加人本人尋問の結果(第二回)〉によれば、参加人は、右作成当時、一郎と離別しようかと思っていたことが認められ、右各事実は、参加人と一郎との内縁関係がその後解消したのではないかと疑わせる事実ということができる。

(3) 同(3)の事実について、原告は、一郎の研究室の助手や秘書、さらに一郎の友人から、女性関係が原因で一郎が大学を追放されるというようなことを何回か聞いており、参加人が子供を連れて大学の事務局に行き、一郎の子供であると述べたため、事務局から電話で教官として身を慎むようにとの注意を受けたことがあり、一郎が教授になれなかったのは、右のようなことがあったからであると同人の友人から聞いていると述べる(第一回原告本人尋問)。しかし、右供述はにわかに信用することができない。その他、右事実を認めるに足りる証拠はない。

(4) 同(4)の事実について、証人岡澤安二の証言によれば、昭和四七年二月頃、参加人が太一を連れて三和マンションに押しかけ、原告の居宅の隣室の三浦豊子宅に入り込み、警察に通報されるという事件を起こしたこと、大崎警察署は右事件を防犯係の家事相談として取り扱い、一郎及び参加人を呼び出して二、三回話合いの場を設けたこと、その場で、参加人が、一郎が約束を守らない、原告が邪魔ばかりしているとか、自分は大学教授の妻としてはふさわしくない、ただ子供と自分が食べて生活を見てもらえればよい等といった発言をしたこと、最終的には一郎が同警察署の担当者に、参加人に慰謝料を払い別れることにしたとの報告を行ったことが認められる。参加人本人尋問の結果(第一回)中、右認定に反する部分は信用することができない。

したがって、右報告内容が真実であり、それが実際に履行されたとすれば、参加人と一郎との内縁関係は、その後解消されたことになるが、右報告内容が真実であって、実際に履行されたことを証する確たる証拠はない。

(二)  原告と一郎との関係

〈証拠〉によれば、一郎は、昭和四五年八月二九日三和マンションの原告方に住民登録上の住所を移し、昭和四八年頃以降は、国民健康保険、退職年金、大学や事業団等の仕事先との関係上も、原告方を住所として届け出、友人、関係者に同所を住所として表示していること、昭和四八年度の紫綬褒章を受賞した際にも同所を住所として届け出ていることが認められる。

また、〈証拠〉によれば、一郎が右紫綬褒章の伝達式、仕事関係の会合及び旅行、大学の教え子による祝賀会等公式の席に原告を妻として同伴したことがあること、〈証拠〉によれば、一郎は原告を一郎の友人や仕事上の関係者等に妻として紹介し、原告は、一郎の友人や仕事上の関係者等から同人の妻と思われていたことが認められる。

これらの事実からすれば、原告と一郎との間に内縁関係が成立するに至っていたことがうかがわれる。

なお、参加人は、一郎が原告方に外泊していたのは、当初は概ね金曜日のみ、後に概ね火曜日と金曜日のみであった旨を述べる(第一、二回参加人本人尋問)が、右事実に照らし、にわかに信用することができない。

(三)  出入控(甲第一三号証)等について

原告は、一郎が専ら三和マンションにおいて生活していた事実の証拠として、同マンション警備員記帳に係る昭和五六年二月一〇日ないし四月九日の間の同マンションの住人の出入控の写し(甲第一三号証)を提出する。

しかし、右証拠を検討すると、二月一二日一〇時一〇分の「先生」と記載されている「先」の文字の下に他の文字の一部分(例えば「夫」という文字の足の部分。)ともみられる「八」字形の二つの点の記載があること、同日一三時三〇分の「夫婦」と記載されている「婦」の文字の筆跡が、同日一一時及び二三時一五分の同文字の筆跡と異なっていること、二月一四日一四時及び一七時の「夫婦」と記載されている「婦」の文字の筆跡が、同日九時三〇分及び二一時一〇分の同文字の筆跡と異なっていること、三月八日一四時一五分の「夫婦」と記載されている「婦」の文字の女偏の筆跡が、前後に記載されている文字の女偏の筆跡と異なるうえ、右文字の下に他の文字の一部分(例えば「人」という文字の足の部分。)ともみられる「八」字形の二つの点の記載があること、三月一一日一五時〇五分の「先生」と記載されている「生」の文字の筆跡が、同日二〇時三〇分の「生駒」と記載されている「生」の文字の筆跡と異なるうえ、右「先」の文字の下に他の文字の一部分(例えば、「夫」という文字の足の部分。)ともみられる「八」字形の二つの点の記載があること等、一郎が出入したことを表示する「先生」ないし「夫婦」の記載の筆跡等に疑義があるから、右証拠が原本を正確に複写したものであると認めることはできない。したがって、右証拠を採用することはできない。

また、証人鷲津健助は、同人が三和マンションの警備員となった昭和五五年以降、一郎は毎日のように朝六時少しすぎに新聞を持って一階のロビーで朝刊を読んでいたから、外泊をした事実はないと思う旨の証言をし、原告も昭和四一年から一郎と同居し、それ以来、一郎が外泊をしたことはあまりないと述べている(第一回原告本人尋問)。しかし、同証人は、その証言によれば、一郎の全財産を原告に遺贈する旨の危急時遺言の遺言書に署名していることが認められるから、本件につき客観的な立場にある者とはいえず、右証言をにわかに信用することはできない。また、原告の右供述も信用することができない。

そのほか、昭和五五年以降、一郎がほとんど毎日原告方に起居していたことを認めるに足りる証拠はない。

(四)  昭和四七年以降の参加人と一郎との関係

参加人は一郎が死亡直前までハイムにおいて参加人と同居していたと述べており(第一回参加人本人尋問)〈証拠〉によれば、ハイムの管理人及び居住者らが昭和五七年四月頃まで一郎が参加人方に居住していたと申し立てていることが認められる。また、丙第一号証ないし第三号証の家計簿上、昭和五五年ないし五七年当時、一郎が主にハイムの参加人方において生活していたことを示す一郎(同証拠上、「O」と表示されている。)の行動に関する記録が記載されている。

さらに、〈証拠〉によれば、太一(昭和四一年三月一〇日生)が小学校一年生当時の作文で参加人が長電話をしていつも一郎(太一が「おとうさん」としているのは、一郎のことを指すものと推認することができる。)に叱られること、同三年生当時の作文で、両親(右同)とトランプをして遊ぶこと、同四年生当時の作文で、一郎(右同)と正月に連日凧あげをしたことをそれぞれ書いていること、〈証拠〉によれば、昭和五三年版の東雪自治会会員名簿に一郎の氏名が記載されていること、〈証拠〉によれば、一郎は昭和四七年八月に仕事でマレーシア方面に赴いた際東京空港から太一宛に、「お父さんは一〇日ばかり南の国へ行きます。おとなしくまってください。」といった文面の葉書を出していること及びクアラルンプールから参加人宛に「クアラルンプールで忙しく仕事をしている後藤先生も協力してくれています。仕事が終わったらシンガポールを回ります。」といった文面の葉書を出していること、〈証拠〉によれば、ハイムの参加人方には、一郎の寝室を兼ねた書斎があり、同人は、昭和四七年以降も同所の書棚に相当数の書籍を置き、同書棚の上に母親の遺骨を置いていたこと、参加人本人尋問の結果(第一回)によれば、一郎は、死亡当時、同人名義の株式を参加人に保管させていたこと、〈証拠〉を総合すれば、一郎は、昭和四七年以降も参加人に生活費を渡し続け、昭和五七年当時、一郎が参加人名義で愛工電化株式会社に賃貸した一郎所有の不動産の賃料月二〇万円を参加人の普通預金口座に振り込ませていたほかに、毎月現金で二〇万円を渡していたことがそれぞれ認められる。

これらの各事実からすれば、昭和四七年以降も、一郎がハイムにも居住し、参加人、太一と家族としての生活を送っていたことを推認することができ、前記各供述、申し立て及び家計簿の記載内容は信用するに足りるものということができる。

したがって、前記(一)(2)、(4)のとおり、昭和四七年頃参加人と一郎との内縁関係が解消したのではないかと疑わせる事実が存在し、さらに、前記(二)のとおり、原告と一郎との間に内縁関係が成立していたことがうかがわれるものの、結局、参加人と一郎との内縁関係は同人の死亡当時まで、その実体を失っていなかったと認めることができるものというべきである。

四以上の通り、原告と一郎との間の内縁関係に先行して、参加人と一郎との間の内縁関係が存在し、同関係は、一郎の死亡当時においてその実体を失っていなかったものであるから、先行する内縁関係上の当事者である参加人が法二条一項二号に規定する配偶者に該当するというべきであって、原告を右配偶者と認めることはできないものといわなければならない。

したがって、本件処分は、適法である。

五よって、原告の請求は理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官宍戸達徳 裁判官北澤晶 裁判官中山顕裕)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例